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■ スペイン探訪シリーズ TamioとMitsuのスペイン ■ |
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8. 美術溢れる町、ビジャヌエバ・デ・ラ・フエンテ |
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グラナダ⇔マドリッドの高速道路をバルデペンニャスで降り、延々と東に走り、ビジャヌエバ・デ・ロス・インファンテスやビジャエルモサの「プエブロ」を通りすぎて広々と延びているオリーブ畑の中に目指すビジャヌエバ・デ・ラ・フエンテの看板を見つける。
電話で予約したホスタルは村の入り口にあった。結構広い駐車場に車が一杯あり、宿泊客かと思ったら結婚披露宴の客たちだった。レセプシオン兼用のバー・カウンターに行き「宿泊の予約をしている」と告げると、「知っている」と言い名前も聞かず身分証明の提示要求もされず宿泊者名簿の記入も無く、すぐさま部屋に案内された。
夕食を終わらせて11時過ぎに村に出かけた。薄暗くなった通りのあちらこちらで村の人が道路にチョークでなにやら線を描いていた。
ある一家族のような大人と子供のグループは茶色に色付けされた大鋸屑(オガ屑)をチョークの線に沿って道路に敷き詰めて行く。
これは次の日の「コルプス・クリスティ」(聖体祭)でキリストそのものと拝まれるパンを司祭が掲げ持って歩く道になるのである。
村役場の前では数十人の子供たちと数人の大人が同じように道に線を書いたり、大鋸屑を用意したりしていた。写真を撮っているとその中の1人が「Come,come」と言って焼いていたサルチーチョンをパンに挟んで差し出してくれる。おまけにビール付きである。腹はきつかったがありがたく頂戴する。
その作業は夜になっても続いたが、我々は0時頃宿に引き上げ、次の朝10時頃にまた行って見た。前夜のあの家族がいた所を見たら、なんと道路一杯に広がった2本の松の木、松かさも根っこも置いてある。その木の天辺に造られた祭壇には花で作られた子羊。通りかかったおばあさんが「これは私の息子が作ったんだよ」と自慢そうに教えてくれる。
子供たちが作っていたパターンも数十メートル続いていた。15、6の大鋸屑ジュウタンが村の中心の通りを埋め尽くし、それは400メートルにもなる。親から子へと何年代にも渡って受け継がれたその光るようなさまざまな色の芸術的なジュウタンを見て深く感動した。毎年デザインが違うし、出来上がるまで誰も他のところのデザインは知らないそうだ。
見て歩いている間、観光客を一人も見かけなかった。いかにこの宗教行事がこの村の人たちの為であり、大事にしているかの証明であろう。 |
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7. 世界を開いた街、ウエルバ |
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セビリアから西に向かって走るとウエルバに着く。そこからちょっと南に折れるとリオ・ティントとリオ・オディエルが海に注ぐ手前でプンタ・アレニーヤになる。そこに妙な三隻の船が停泊しているのが見える。使った材木などは割合新しいが、型は明らかに昔のもの。近づいて名前を読むと道理で「ニーニャ」、「ピンタ」と「サンタ・マリア」。コロンブスが新世界を発見するときに乗った船だ。
実物大で観光客も中に乗り込み当時の船の雰囲気を味わうことができる。船底に入ると数千km、5週間以上の航海をするにはなんと狭いこと、途中で乗組員が謀反を起こしたことなどを聞いても十分理解できる。それにしても、こんな小さい船で大西洋を渡って新大陸を発見したと考えると感服する。
この船は近くの町パロス(現在パロス・デ・ラ・フロンテラ)で作られ、そしてそこからコロンバスが出発した。しかしここにはコロンバスにとって、もっと大事なところがある。それは「エル・モナステリオ・デ・ラ・ラビア」。三隻の船が停泊しているところから200mほど離れている修道院である。
修道院の教会や食堂、勉強部屋などを見ると、当時の修道士たちの質素な生活がわかる。ここには修道士になる前に当時のイサベル女王とフェルデナンド王の地理学者を務めていた「ホワン・ペレズ」修道士がいた。コロンブスはその人に地理学上の世界観などの教えを乞うために一時的にその修道院に入り、修道生活を営んだ。
この修道士から教えられたインドを目指して意気揚々と海に乗り出したのである。もちろん自分が上陸したところが、カリブ海のサン・サルバドール島と考えもしなかった。死ぬまで「インド」を発見したと思っていた。でも彼の発見は当時のヨーロッパの世界観をひっくり返し、現在なおスペインではコロンブスが「新世界」を発見した10月12日は大きな祭日である。このちっぽけな三隻の船が新しい世界を開いたと考えると不思議な気持ちになる。 |
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| 6. 巡礼の村、エル・ロシオ |
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今年5月20日にマラガのビクトリア通りにトラクターで牽引された数十台の幌馬車の長い行列が現れた。先頭には花火を打ち上げながら歩く人。次の牛車には豪華な天蓋の下、沢山の花々に囲まれたマリアの絵が乗っている。そしてその後にフリル飾りを付けたり花で飾ったり、また後ろ側を縁側風にしつらえテーブルと椅子を設置した幌馬車が延々と続くのである。これは毎年マラガ周辺から集まり「エル・ロシオ」村への巡礼の始まりなのだ。行列はマラガの「エル・ロシオ」のマリア像が祭られている聖ラザロ教会とマリア・デ・ラ・ビクトリア教会に巡礼した後300キロ以上離れているアルモンテのロシオ村に向かって1週間も旅を続けるのである。
同時にスペインの他の地域からも、遠くはベルギーやフランスからもエルマンダー(信徒団体)と呼ばれる行列がロシオ村目指してくるのである。
エル・ロシオ村は、はっきりした産業も無いし海からそんなに離れていない湿地帯に囲まれた原始的な風景の小さな村。初めて訪ねて驚くのは道路が舗装されていないばかりか、道と呼べる所がはっきりしてない。もちろん歩道の区別もなく村全体が細かい砂に覆われていた。ここで雨が降ったら泥のぬかるみ状態だし、風が吹いたら目も開けられないに違いない。
村の中央広場に面して白い教会が立っている。中に入ると祭壇の上に「エル・ロシオ」の像が祭られてある。特別な日でもないのに、数十人の巡礼者が熱心にマリア像に祈りを捧げている。 15世紀にオリーブの木の幹のくぼみからマリアの像が見つかった場所に教会を建てて以来、このマリアは病気を治すなどの奇跡のマリアと信じられ、その恵みを求めて巡礼地の一つになってきた。600年間もの歴史を数えるこの崇拝は17世紀からは復活祭から50日後にお祝いすることに定められた。法王パウロ2世も1993年にこの「エル・ロシオ」村を尋ねたこともある。同じような巡礼地のポルトガルのファティマやフランスのルルドはマリアの崇拝でかなり大きな町に変わってしまったが、不思議にこの「エル・ロシオ」村は非常に素朴で小さい村のまま。
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| 5. 神が住む山、モンセラット |
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バルセロナから交通が少し少なくなる辺りで高速から降り、狭い谷間の中で宿を探す。ガソリンスタンドの裏に質素なレストラン兼ホテルを見つける。アメリカ帰りの英語のうまい女の子が部屋を見せてくれた。食事込みで安かった。夕食までに戻る約束をして車に戻り山の上を目指して出発する。カーブばっかりの山道を20分位辿っていくと突然地下から頭上までニョキニョキと湧き出たような奇怪な岩山を後ろに従えた修道院が見え、思わず「わぁ〜」と声が出る。
駅から登山電車に乗って山の上まで登る。周囲は山が重なり合っていて、そのあちらこちらに小さな御堂が見える。細い山道を上がったり降りたりのハイキングをしながらその御堂を巡礼する人たちが見える。眼下には教会や修道院、更にずっと下には現世の人々が住む平地が見え、こんな大変なところに修道院を建てた理由がわかった。登山電車で戻り、教会正面入り口とは違う右側の入り口を入っていくと、教会の奥に続いていて、階段を上ると教会内を見渡せる祭壇後方の「ラ・モレネータ」と呼ばれる黒いマリア像が祭られてあるところに上っていく。ガラスケースから出されている玉を持ったマリアの右手は信者の願いの接吻でブロンズ色になっている。マリアに挨拶を終えて教会の反対側に降りると、今度はマリアに捧げる蝋燭のお供え場に出る。この聖なる場所で1、2ユーロの蝋燭に願いを託して灯す。
それから教会の正門から入り直して教会の中に行き、黒いマリア像がよく見える場所に陣取る。修道院モンセラットには80名の修道僧がいるそうだが、小中学校とその寄宿舎もある。修道院の定められた祈りにその「エスコラニア」と呼ばれる少年合唱団も加わる。毎日(土曜日を除く)昼の1:00と夜の6:30の祈りの歌が公開されている。
その時間になると、修道士たちは奥から入って来て祭壇内陣の左右の席に座り、オルガンが入ると修道院の夕の祈り(一日7回の決められた祈りがある)のヴェスプェスが始まる。男性修道僧だけの深い声の歌を聞きながら、300年前のモンセラット修道院の創立時代を想像する。ヴェスプェスが20分ほど続き、内陣横から膝丈の長さの白いスモックのような服を羽織った少年合唱団の子供たちがゆっくり一列で入ってくる。6、7歳から12歳ぐらいに見える男の子20名。修道僧たちの祈りの歌が終わると、その中の一人が前に出てきて指揮を執り、祈りの歌が始まる。
もちろん、子供たちの声は変声期前の澄み切った高い声で、教会に聞きに集まった100人以上の聴衆を引き付ける。歌の時間は非常に短く感じたが20分くらいあっただろうか。
電気がほとんど消え、沈黙の内に暗くなった教会から引きあげた。
モンセラットの雰囲気を味わいながら山の麓の宿まで戻る。
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| 4. 大昔を現在にする街、メリダ |
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「ローマからの劇がテアトロであるんだってさ、見に行きたいなあ」「何を言ってる!昨日競技場に剣闘士を見に行ったし、その前はサーカスに馬車競技を見に行ったばかりじゃないか、遊んでばかりいないでたまには真面目に仕事をやれ、今日はお前が店番だ」
2000年前のローマ帝国の都市メリダでそんな会話があったに違いない。バスの中央駅から町に入るとすぐ左手に大きな水道橋が見え、近代都市機能を備えた街だったことがわかる。ローマ時代の街の中心には今でも劇が上演されているテアトロ(野外劇場)がある。劇場の舞台中心上部には収穫の女神セレスが観衆を見下ろして鎮座している。もう少し低い位置にも偉そうなローマ人の彫像が並ぶ。扇状の客席に座るとどこからか音楽が聞こえてきそうである。かの青年もきっと音響効果抜群の劇を堪能していたことだろう。
隣り合わせに、ローマのコロッセオを小形にした円形競技場もある。ここでは剣闘士や動物の戦いを見世物にしていた。ローマと同じように、動物などが床下から登場して戦いを演じた。競技場でのライオンと槍で戦う男の姿が見事なモザイクとなって向かいの博物館にある。同博物館にはローマ時代からの豊富な彫刻、モザイク、お金などが展示されていて、ローマ時代のメリダ人の日常生活をほうふつとさせる。
野外劇場の前には当時の豪華な銭湯と言える公衆浴場もあって、当時の市民の社交の場だったに違いない。男女は時間で分けられていたのか、はたまた混浴だったのか(所によって違ったらしい)。
競技場から10分ぐらい歩くと、サーカス(楕円形の競技場)の見学も出来る。
これは4頭立ての馬に引っ張られた競技戦車が、同時に4〜6車でサーカス内を7周回って競い合った。
・・・「朝競技場に行って、手に汗握る剣闘士の戦いを観戦した後、ちょっとお風呂に入ってリラックスしてから夕方には野外劇場のギリシャの有名な作家の劇を見に行くかな?・・・それとも今日はサーカスでいつもの週末の馬車レースにローマから有名なドライバーが来ているというから、そっちの方に行くかな?・・・そうだった。今日は店番をするようにおやじから言われたんだ。あ〜あ、仕方がない、うちのお風呂で我慢するか。家に何人か友達を呼んでパーテイをしようかな・・・。よし!そうしよっと!」
このドラ息子が住んでいた「ミスレウムの家」は劇場とサーカスからちょっと離れた大きな浴場と表の店を含めて20部屋以上もある金持ちのメリダ人の豪華な家だから、充分パーテイを開く余裕もあったに違いない。
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| 3. 恋人の街、テルエル |
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夕方の街は中心プラザの噴水の光と音楽で訪れる人を特別に歓迎する。テルエルの街の風景は目を引く。細い道の間に美味しそうに飾ってあるケーキのような塔がそびえ立つ。街の市庁舎や教会建築は皆このような一風変わった様式で出来ている。
テルエル市は「ムデハル」(mudèjar)建築様式の宝箱(世界文化遺産)。「ムデハル」とは元はアラビア語の「残留者」の意味で、イスラム教徒を指し、またその文化とキリスト教文化が融合して出来たのがムデハル文化。そして建築でも特異なムデハル様式が生まれ、テルエル市に独創的な風景を与えている。
カテドラルに行ってその独自性を味わう。そこに入るとすぐ感じるのはその大きさの教会には珍しく屋根は平らになっている。中心祭壇の「レタブロ(バック)」は金箔など付けていない美しい生の木で出来ている。そして天井が非常に高い。ガイドさんの案内で長い細い階段を上がり、その天井近くの壁際に作られた狭い縁側みたいなところに出る。そこで十分その天井のデザインや絵を楽しむ事が出来る。
カテドラルから出てほんの少し離れている聖ペドロ教会、「Iglesia de San
Pedro」も「ムデハル」建築で建てられたが、この教会の有名なところはそのムデハル美術ではなく、永遠の恋の物語です。教会とつながっているのが「マウソレオ・アマンテス」
(恋人たちのお墓)
です。毎年テルエルではこの二人を記念するフェステバルが催され、実際の街中を舞台に当時の悲恋物語を再現する劇を行っている。スペイン版「ロメオとジュリエット」と言われているとおり、二人のその愛は生きているうちには実を結ばなかったが、死後の世界で現在まで結ばれ続けている。フアン・ディエゴとイザベルは互いに愛し合っていたが、イザベルの父親は貧乏人のフアンとの結婚を許さなかった。フアンは5年の間に金持ちになって帰るとイサベルに約束して出かけた。ちょうど5年目に金持ちになったフアンは戻るが、その日は父親に決められた他の金持ちとイザベルの結婚式の日。フアンは絶望のあまり死んでしまい、イザベルはフアンの遺体に抱きついて息絶える。二人の棺の中はガラス越しでそのミイラが見えるが、棺の上には互いに手をつないでいる若い二人のすばらしい彫刻が施されている。
テルエルは夢を見せる街です。 (画像はホアン・ディエゴとイザベルのお墓)
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2. グレゴリアンチャントの町、サント・ドミンゴ・デ・シロス |
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車で東から町に向かうと細い道は狭い谷間に入り、両側を絶壁に挟まれた川と一緒に出口を求めるように進む。そして突然山が緩やかになって、中世からの石作りの家々が並ぶサント・ドミンゴ・デ・シロスが現れる。
中央広場に入ると街を見下ろしているように、入り口の上に貴族の紋章を誇るHotel Tres
Coronas。ホテルにチェックインして部屋に案内されると部屋までが中世的で、壁は分厚い石造り、大事に磨かれた木製の家具や雰囲気のある窓の戸。
フロントの女性に教会で何時に修道士たちの祈りがあるか尋ねると「コンプレタス(その日の最後の祈り)は9時30分です」と答える。町に来る目的はそのベネディクト修道院の修道士が毎日の日課である祈りのグレゴリアン・チャントを聞く事にある。
昔の修道院の修道士生活は1日7回の祈りで区切られており 1)マティンズ 2)プライム 3)テルス 4.セクスト 5)ノネス 6)ヴェスペレス 7)コンプレタス。向かい合った2つのグループが互いに掛け合うように歌う祈りで、伝統的には7世紀あたりからその祈りをグレゴリアン・チャントで歌う。現在ではこの昔からの習慣はほとんど無いことで遠くからここに聴きに来る人が多い。
コンプレタスの祈りまでの空き時間、町を見に出かける。やはりほとんどの家が石造りで、新しい家も古い家も同じ色の石で同じような瓦屋根。町全体を回るのに30分程の小さい町に観光客が多いことはホテルが大小5軒もあることでわかる。
修道院には有名な回廊があるがこの時間は閉まっており、教会に入ると中は真っ暗。掲示板にはコンプレタスは9時30分「ごろ」とあり時間を過ぎて、ぽつんぽつんと聴きに来る人が現れる。45分頃29人の修道士が教会の奥から出て来て向かい合い、その日のコンプレタスの祈りを歌い始める。
たいていグレゴリアン・チャントは「アカペラ」だがそこでは小さなオルガンで伴奏する。暗い教会に修道士たちの深い声が響き渡る荘厳性はヨーロッパの中世の雰気を作り出し聴く人を別の時代に送り込む。時間を忘れ30分、40分? その雰囲気に包まれたままホテルのレストランで飲む地ワインは特別です。
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1 絵によって有名になった町、ゲルニカ |
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ビルバオから車で、少々不安になりながらも走るとバスクの独特な田舎風景の中に小さな町が現れる。ビルバオからバスもあり、駅から東北へ50分ぐらい。道路標識はスペイン語とバスク語の併記になる。
中心の広場に面している観光案内所を訪ねると、お嬢さんが丁寧に細かく町の見所を紹介してくれ、ホテルの案内もしてもらう。そこから歩いて、博物館にもなっているバスクの議事堂を見学する。そこの見所は窓ではなく、天井にある見事なスティンドグラスだ。その中心にはバスクの象徴の大きな樫の木。「オリジナルの木は朽ち果ててしまいましたが、西側に新しい木が植えてあります」と案内の女性が樫の木について話しをしてくれる。「ゲルニカ」はバスク語で「聖なる樫」のこと。
庭には8本の柱に支えられた天蓋つきの中に4mぐらいの皮なしの哀れな朽ち果てた木。しかし議事堂の反対側には青々として希望を感じさせる若い樫が立っている。
やはり親切な案内の女性が「そのオリジナルはマドリッドの、Museo de Arte Reina
Sofiaにあるが、私たちはここに保存すべきだと運動しています。絵の下にはバスク語も書いてあります。だから是非見てください」と、歩いて2分くらいのところにあるその場所を教えてくれる。ピカソの「ゲルニカ」は1937年4月にフランコに味方したナチスドイツの空軍が、ゲルニカを爆撃した事への抗議のために描かれたもので、パリ万博に出品された。
その後「フランコが居るスペインには返さない」とピカソ本人が断言し、ニューヨーク・メトロポリタン美術館に保管されていたが、ピカソもフランコも死んでからの1981年にやっとスペインに帰ってきた。
しかし、その戦争の傷跡が深く残っているバスク人は現在でも、その絵とともにスペインからの独立を強く望んでいる。その「ゲルニカ」は通りの外壁に実物大の陶器タイルに描かれていた。下に“Guernica”と並んで、バスク語で書いてある。“Gernikara”。
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