■ アミーゴスの広場 ■
2008年 春号 アミーゴスの広場
日本人闘牛士 濃野 平さんインタビュー

プロフィール
現在世界で唯一の東洋人闘牛士として活躍中。史上初のマタドール・デ・トロス(満四歳牛の仕留め士)を目指す。
1997年1月 渡西、闘牛のトレーニングを開始する
1999年9月 プロの闘牛士免許を取得
1999年10月17日 日本人として史上三人目のノビジェロとしてウエルバの闘牛場 La Mercedでデビューを飾る
各地の闘牛場で活躍
2007年9月29日 結婚 ウエルバで和式人力車(フェリア日本館に登場)による和装婚礼行列を行い注目を集める
濃野さんご夫妻は人力車を持って、日本館の手伝いに来てくれました!

Q:ウエルバにお住まいですよね。現在どのような活動をしていますか?
スペインへやって来た初年度から、ずっとウエルバで暮らしています。私の闘牛活動ですが、2005年は8試合、2006年には12試合に出場しました。昨年から多額の経費が必要となる試合出場はセーブし、主に牧場内での牛相手の練習に力を入れています。資金難ゆえに効率的、経済的に技術の研鑽を励むのが目的です。もっとも牧場での練習にも牛購入代がかかりますが、試合に出るよりははるかに安あがりなのです。本年度は、現在のクラスである満2歳牛の闘牛士から、より格上である満3歳牛の闘牛士へとステップアップして、飛躍の年にしたいと考えています。


Q:なぜ闘牛士を目指したのですか? 渡西のきっかけは?
元々、バレエなどの舞台芸術に関心があったのですが、日本のテレビで流れたスペインの闘牛シーンに強い衝撃を受けたのです。
美の追求目的の為に自らを危険の限界にまでさらすことが求められる、文字通りの命懸けによる美の舞台がはたしてこの世に二つとあるだろうか、と心奪われ魅了されてしまったのです。これこそ自分が人生に探し求めていた唯一無比のものであると強く思ったのです。初めてスペインへ渡った時には既に28歳になっていました。闘牛士としての訓練を開始するには非常に遅かったといえます。

Q:闘牛士になるまでの道のりはどのようなものだったのですか?
言葉も分からないまま、偶然たどり着くことになったウエルバで闘牛関係者たちと知り合えた私は、幸運にも闘牛士としての練習を始めることができました。ウエルバで一人きりの日本人だった私は、闘牛の面では唯一の練習仲間で親友でもあったビクトル・ラウル・バルガス(2005年死去)、生活の面ではホアキン・サンチェス氏とその家族に言葉では言い尽くせない程お世話になってきました。プロ闘牛士として試合に出場するために労働居住許可と闘牛士免許を獲得した私はその翌月、ウエルバのラ・メルセ闘牛場で史上3人目の日本人闘牛士としてデビューすることができました。

Q:プロの闘牛士とはどんなお仕事なのでしょう?
闘牛はスペインの国民的祝祭です。闘牛士たちはシーズン中、スペイン全土を旅しながら闘牛を行っています。大勢の闘牛士がいますが、闘牛収入のみで生計を立てられるのはスペイン全土でも数十人程度です。そして一握りのスーパースターたちが莫大な収入を得ています。優れた才能と実力、そして華をも併せ持った者たちが、スペイン闘牛界において強い影響力を持つ闘牛代理人のマネージメントによって世に出るのです。プロ闘牛士のクラスは3つありまして、最上級がマタドール・デ・トロスとよばれる満4歳牛の闘牛士、ノビジェロ・コン・ピカドールとよばれるのが満3歳牛の闘牛士、ノビジェロ・シン・ピカドールが満2歳牛の闘牛士です。

ゼロから始めて最上級のマタドール・デ・トロスにまで昇格するには、少なくとも3000〜4000万円位の活動経費が必要となります。その間のギャラは通常ありません。私も自らこれだけの大金を捻出することは事実上不可能ですので、今後、在スペインの日系企業などの支援を仰ぎたいと強く望んでおります。そして史上初となる日本人マタドール・デ・トロスへ到達する夢をなんとしても実現したいのです。

Q:最後に、日本人の闘牛ファンに伝えたいことは?
闘牛で最も素晴らしく感動的なのは、闘牛士と牡牛、観客がひとつになる瞬間です。同じ空間で生命を感じ合うことなのです。闘牛士が自らの弱い心に負けず果敢に己の限界へと挑み、牡牛がそれに応える。観客たちはその演技に没頭し「オーレ!」と叫んで闘牛場がまさにひとつになる。スペインの生んだ偉大な芸術、それが闘牛なのです。
 

日本人闘牛士 濃野平
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2007年 夏号 アミーゴスの広場

バルト海のクルセロ 7泊8日

MSC オペラ クルーズ
MSCオペラ http://www.msccruisesusa.com/home.asp
シップデータ 総トン数: 59,058トン
全長: 251.25 全幅: 28.8
初就航: 20046  巡航速力: 21ノット
乗客デッキ: 9層 エレベーター: 9  スタビライザー:あり
乗客数:(21室の場合)1,712名 乗組員数: 720740 
電圧: 110/220

一度経験するとどうもやみつきになるのがクルーズのようだ。アミーゴスメンバーのクルーズ航海日記第二弾!今回は特別特集を組み、「アミーゴス広場」にてご紹介。

人:芸林民夫&みつ

「バルト海」と聞くと日本の歴史上では皇帝ロシアの「バルト艦隊」が連想されるし、第二次世界大戦のときもドイツ海軍の潜水艦隊の基地であった事など物騒な記憶が残っている。しかし、MSCオペラ号に載ってその甲板から「バルティック」の海をみるとその恐ろしい話は何のその、コペンハーゲン沖で長い列の電気発電用風車が静かに回っているのを見ると、「平和」の海そのものである。そしてこの規模の船では波の揺れなどは感ず、外の風景を見なければでっかいホテルが港から港へ滑り渡るような感じである。

コペンハーゲン ― ドイツのキール
コペンハーゲンからドイツのキールまでが最初の夜の航海。朝には街の公園がすぐそこに見えるところに接岸していた。初めてのキール、どのような街かと楽しみに下船する。公園の彫刻などを見ながら街の中心にたどり着くと、かなり広範囲の広場や道沿いで日曜蚤の市が行われていた。服やアクセサリー、家具、いろんな道具、コンピュータ関係の部品が所狭しと並べられていて、その一角に花市場があり春の花を求める人で一杯だった。
中には食べ物や飲み物の屋台もあり、そこでニシンの酢漬けのサンドイッチが2ユーロで売られているのを見つけた。昔からニシンの酢漬けに目がない民夫はすぐ買い求め、ドイツビールと一緒においしく胃袋に収めた。



それからルーテル教会のカテドラルで何かの記念コンサートがあるとの看板を見たので行ってみた。中を覗くと信者が皆正装していたから、軽装の我々がためらっていると、親切に中に招き入れてくれた人がいた。端のベンチに座ると聖歌隊の素晴らしい歌が始まる。  めったに聴くことはない聖歌のハーモニーがしばらく続いた。その後は牧師がドイツ語での説教と信徒会の会長が挨拶をした。ドイツ語の中で「ブルゴメイスター」と聞こえたので、キール市の市長もそこにいるとわかった。再び聖歌と2台のオルガンの合奏があって記念式典は終了した。何となく「MSCオペラ」にふさわしいクルーズの始まりだと思った。ちなみに我がキャビンのあるデッキは「ラ・トラビアータ」と名づけられ、他のデッキには「アイーダ」「オテロ」「リゴレット」「トスカ」「ラ・ボヘム」などと名づけられていた。

その夜の夕食、我らのテーブルで同席となったのはイギリス人夫婦2組、その日の話を交換したときにあんまり自慢にならないように控えめにコンサートの話をした。船での夕食は2回あって早い方か遅い方かを選ぶ。「メイトル‘ディ」(レストランの給仕長をフランス語でそう呼ぶ)に早い時間を申し込むと、日本人は他にいなかったし、早い時間を希望するスペイン人もいないので英語を話す人たちとの同席になった。
 そしてその晩に船はスウェーデンのゴットランド島「ビスビィ」に向けて出航。そこは小さな島で海底が浅いためオペラ号は接岸せずに沖に停泊して、上陸する人を「テンダー」(百人ぐらいが乗れる小船)で送ってくれた。

それからビスビィへ
冒険のつもりで街まで行ってみたら、中世の雰囲気が残っている町で城壁もあって、13世紀頃の教会や修道院の廃墟などがあり、世界遺産となっている。5月初めで気温は16度ぐらいしかないが、島民の若者は短パンとノースリーブで公園で遊んでいた。北国の遅い春を待ちかねていた気持ちが見え見えだった。船に戻るときに波が高くなっていて、何隻ものテンダーがオペラ号に近づいたり離れたりしている中、われわれのテンダーが試行錯誤をしながらもやっとのことで船の搭乗口にたどり着いた。われわれが操縦士に拍手をし、他の乗客も続いて大拍手となった。
お次はストックホルム
その夜はストックホルムに向かって航海した。ストックホルム港までの細い水路を辿り、海沿いの家々や別荘、ヨットで一杯のマリーナを眺めながら10時頃にやっと着いた。ストックホルムでは市内観光と「バーサ博物館」のオプショナル・ツァーに参加することにした。1630年ごろバーサ王が作らせた豪華な軍艦「バーサ号」が完成してストックホルムの海岸でめでたく進水したが、そのわずか2時間後には転覆してしまった。ほとんど完成してから王様が急に甲板に大きな砲台が欲しくなり、急きょ設置させた為重心が高過ぎたのが原因らしい。70年代に海の底から引き上げられ、その場所に「バーサ号」を展示する博物館を建てた。当時の王室の軍艦のすばらしい船体やびっしりと飾られた細かい彫刻に驚いた。その後市内見学して船に戻った。



その日の夕方船はストックホルムを離れてエストニアのタリンに向かった。船の先端にある全面ガラス張りの「リラックスルーム」でストックホルムの街並みが後方に静かに去っていくのを眺めた。ここはお気に入りの場所になった。
ハッピー・バースデー・みつ!
 その日はたまたま、みつの誕生日だった。民夫が乗船していた日本人スタッフ(日本人乗客はいないと思っていたので少しびっくりしていた)に誕生祝いの手続きをしてもらい、夕食時にシャンペンと「ハッピー・バースデー・みつ」の文字入りのケーキと3人の音楽隊の歌でお祝いした。その晩からアメリカ人の女性2人が加わって8人のテーブルになった。

タリンでも市内観光と郊外の昔のエストニア人が暮らした家などを展示していた野外博物館を含むオプショナル・ツァーに参加した。そこを訪れる2、3日前にエストニア政府がソ連の兵士の像をタリン中心部から郊外の墓地に移した。ロシアのプーチン首相はそのことを非難し、その非難に今度はエストニアの若者が反発、抗議が暴動騒ぎになったらしい。まだ街のショーウインドに板が張られていたり、警察もうろうろしていた。ガイドさんはエストニア人のおばさんで、エストニア人の気持ちを説明してくれた。やはり、長い歴史の中で自国がバルト海の国々、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、ロシアに次々と侵略された傷跡は深い。
 野外博物館で見た昔の家に驚いた。何と茅葺で、日本の昔の田舎の家と代わらなかった。後で息子にその写真を送ったら、歴史に詳しい彼から青森の三内丸山遺跡で再現された五千年前の家の写真が送り返されてきたが、本当にそっくり。

ストックホルムからタリンまでに時差が1時間あり、サンクト・ペテルブルグまでに更に1時間あった。それで日が沈むのが十時半過ぎになり、まだ白夜までには間があるがかなり遅くまで明るかった。
サンクト・ペテルブルグ
 サンクト・ペテルブルグは20年ぐらい前に、まだ「レニン・グラード」と呼ばれていたときに訪ねたことがあるが、今回はそのソ連時代とだいぶ様子が違った。

下船するときに日本のパスポートを見せたら入国管理の女性警官が写真と民夫の顔を見比べて笑った。昔は渋い顔しか見たことが無かった。また、昼食のレストランでのショーの若者たちも満面の笑顔で歌ったり踊ったりしていた。やはり、サンクト・ペテルブルグはエルミタージュ美術館が最高の目玉で、たっぷり2時間半思う存分見学できたことはこの「バルト海クルーズ」のハイライトだった。
 サンクト・ペテルブルグから一日掛けてコペンハーゲンに戻る。航海中初めての下船なしの日で、丸一日船内で過ごすが退屈ではなかった。ラウンジでのパスタ料理講習会と試食会、ダンス・レッスン、ゲームなどもあり、プール、ジャクジー、カジノもあり、そしてその晩は航海中恒例の劇場でのショーの最終ステージで、一際ゴージャスだった。船内では時差も戻り、2時間増えたはずなのだがあっという間にコペンハーゲンに到着してしまった。
クルーズの最後はオペラ号の発着港があるコペンハーゲンの見学。市内やデンマークの議事堂、そして何より人気があったのはアンデルセン童話の「人魚姫」の像だった。マラガのプラザ・マリーナ前にあるハンス・クリスチャン・アンデルセンが座っているベンチを思い出しマラガに戻った。 (終わり)

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